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私の頭から「介護」が抜けない理由
そもそも私が介護職を副業に選んだわけ
この数年の間に、私の中で、ある一つの想いというか葛藤というか、変なものが生まれていました。
まるっきり後付けになるのですが、私が介護の仕事をする動機みたいなものだったような気がします。
これは、ブログに書いて公にするかどうか悩みましたが、たぶん、多かれ少なかれ同じような気持ちの方はいらっしゃると思うので、ここは勇気を出して書くことにします。
母の介護をしたくない
母の介護をしたくない。
その罪滅ぼしのような感じで、他の方の介護に携わる、みたいな意識がうっすらとありました。
母との関係は、これまで表向きには特にたいした問題はありませんでした。
大人になるまで、口ごたえもしたことがなく、いい子を演じ、窮屈に感じながらもそんなもんなんだと思って暮らしていました。
反抗期なんて勿論なく・・・というか、「私が反抗したら母は潰れる」とわかっていたので、できませんでした。
弟が私よりも早くに我が家の「おかしさ」に見切りをつけ、体よく距離を置いたことにも私は気づいていませんでした。
東京の大学まで出してもらい、お金には不自由な思いをしなかったことについて、「あんなにしてやった」と言われますし、それについては私も感謝はしていますが、それとは別に、目に見えない精神的なコントロールが、かなりきつくありました。
「毒親」という言葉は使いたくないが・・・
それに初めて気づいたのは、高校を卒業して特急電車で2時間かかる東京で下宿暮らしをするようになったころです。
ひとりで服を買いに街へ出た時、「これ…お母さん何て言うかな」と頭をよぎったんです。母は電車で2時間の田舎にいるのに。
今ではメジャーになっていますが、いわゆる「毒親」関連、人格障害の類の本を読むと、まぁ、当てはまることが多いことにびっくりしたのと同時に、「他にもいるんだ」という安心感を覚えました。
でも、やはり「毒親」という言葉は、あまりにも強烈で、正直あまり使いたくない言葉ではありますね。
母のコントロール
離れて暮らしている間、母に相談せずにテレビを買った時も、それが知れた時に「なんでお母さんに言ってくれないの?」と責められたりしていました。
いちいち電話して報告します?
そういえば、週に1度は電話するようにとも言われていましたね (^_^;)
母の顔色をうかがって育ってきたことを意識するようになって、よくよく過去を振り返ってみると、いろんなことがフツフツとよみがえってきました。
友達と出かける時は「誰とどこに行くの、どんな人」などなど、根掘り葉掘り聞かれたり、母が自分の思い通りに私を動かしたい時には、「あんたがまともな神経の持ち主だったら○○するはず」「あんたが常識ある人ならそうするよね」というような言い方をされていました。
両親の喧嘩を嫌がると、「こんなのどこの家庭でもある。こんなこと気にするなんて、あんた神経症だね。そんなんじゃ大人になってもまともに生きていけないよ」などと言われていました。
また、母は、その時の気分で言うことが全く違い、同じことでも「ダメ」な日もあれば「OK」な日もあり、同じことをしても、この間は機嫌よく一緒に話していたのに、今回は怒られたといった具合に、どんな反応が返ってくるか予測不可能だったので、私はとりあえず内緒にできることはできるだけ内緒にし、母の前では、母が喜びそうなことだけ話すことにしていました。
親から子へ受け継がれる支配
そういう母自身も、たぶん母の母(私の祖母)から、同じような思いをさせられてきたのだと思うと、かわいそうにも思えるのです。
だからといって、母と一緒に生活するというのは、私にとっては自分を無くすことであり、精神の破綻であり、生きている意味がなくなるので、今となっては現実的ではありません。
昔から根付く日本の風土の中で、当たり前とされていたことや、悪気なく、「愛」のつもりでしていたことが、実は子供を苦しめているということがある、ということを親世代の方にも知っておいていただきたいですね。
このページの最後に、参考図書のリンクを貼っておきます。
父の気持ち
父も健在ですが、2017年頃から認知症になり、2年後の今は要介護1になりました。
両親は昔から年がら年中夫婦喧嘩が絶えず、「そんなに喧嘩するなら別れてほしい」「機嫌よくできるなら別れたほうがいいんじゃない?」と事あるごとに言っていました。
どちらについていくかなんて選べないので、私は施設に行くつもりでした。
母は「あんたたちのために別れない」「片親だとろくな就職や結婚ができない」と言って、仮面夫婦、仮面家族を長いこと続けていました。
今やもうそんな時代ではないのに、離婚できない理由を私たち子供のせいにしないでほしいと思っていました。
私が結婚してから、両親は10年ほど別居していましたが、父の定年と同時に経済的な理由から、また一緒に住むことになりました。
そのタイミングで私が離婚したので、みんなで一緒に住んだら経済的だという、今思うとおかしな母の提案で、大きな一軒家を借りて両親と私と息子2人の5人で住むことになりました。
私は家を出て10年経っていましたから、忘れていたのです。母と一緒にいると苦しいことを。
母が見つけてきた高級住宅街の大きな賃貸の一軒家は、母にとってのステータスでした。
「家事も庭の手入れも私が頑張るからっ!」と当初ガッツポーズで張り切っていたのですが、それもつかの間、やれ何を手伝わないの、あれが大変だのとグチが始まります。
掃除と1週間の食材の買い出しは、母と私が二人で土日にまとめてして、平日は洗濯と食事の用意を母にしてもらっていました。
私は給料から毎月12万円家に入れていたにもかかわらず、ある時母から「穀つぶし」と言われた(母は覚えていません)ことで、私は「あ、家出よう」と決めました。
母は、時々信じられないような言葉を発するのですが、本人は覚えていないのです。
何か精神疾患なのかなぁと思いますが、本人の自覚がないので病院に連れていくこともできず今に至るという感じです。
7年一緒に暮らしましたが、私自身が限界だったことと、子供たちもイライラをぶつけるところがなく苦しんでいたので、押し入れに隠して少しずつ食器を買ったり引越しの準備をしていました。
引越しが決まった時、父にも一緒に来るかと打診しましたが、まぁ、母がかわいそうだったのでしょう、残ると言いました。
昔、離婚を勧めた時も、「離婚したらお母さんに年金が入らなくなるから」と言って留まり、別居中は生活費を月20万円も母に渡していた父です。
結局私が出た後も、父は母に手を焼いていましたが、「耳が遠いフリをして我慢している」と言っていました。
認知症もたぶんそのせいではないかと思っています。思いっきり共依存の関係ができあがっていたのですね。
母の謎(嘘)
今は母が父を看ています。
実際のところどんなふうな生活なのかはわかりません。
2年ほど前に一度父が「叩かれる」と言っていましたが、昔、弟がよく母に「これでもか」と言って叩かれ、吹っ飛ばされ、青あざが身体中にできていたことを思うと、もしかしたら軽い虐待があるのかもしれません。
それすらもう私には知るすべがありませんし、どうしようもできません。
母は、父の分とわせると、私の収入より明らかに多い年金をもらっているのに、お金がないと言ってきていました。
それはおかしいと思って、内訳を聞くと「あんたが口出しすることではない」と拒否されるのですよね…(笑)
もうこのかた何十年も株に入れ込んでいて、一日中パソコンの前に座っている母なのですが、せめて借金がないことを祈るばかりです。
母は、よく、何かをしてほしい時に、必ず誰かをダシにします。
今はだいたい父なのですが、「お父さんのデイの回数を増やしたいけどお金がない」とか、「お父さんが話したいだろうから定期的に電話の相手してやって」とかいうふうに。
デイの回数は要介護1なら、せいぜい行けても週2回なのは私でもわかりますし、電話もそれっきり長いことかかってこないのがいつものことです。
本人に自覚があるのかないのか不明なのですが、昔から母は自分の都合のいいように嘘をつく癖があるのです。
明らかにウソだとわかるウソを平気でつくのですが、もう何が本当で何が嘘なのか、最近は私にはわかりません。
後味が悪いのですが、今回はここまでにさせてください。
ではまた。
参考図書
- 毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社+α文庫) スーザン・フォワード (著), 玉置 悟 (翻訳)
- 逃げたい娘 諦めない母 朝倉 真弓 、 信田 さよ子
- 支配されちゃう人たち 親や上司の否定的な暗示から解放される超簡単テクニック 大嶋信頼
- 自分の居場所のみつけかた 斎藤 学
- 子供にしがみつく心理 大人になれない親たち 加藤 諦三
- 自分の居場所のみつけかた 斎藤 学
- ちゃんと人とつきあいたい〈2〉発達障害や人間関係に悩む人のためのソーシャルスキル・トレーニング 霜田 浩信 (著, 編集), 橋本 創一 (著, 編集), 三浦 巧也 (著, 編集), 堂山 亞希 (著), 熊谷 亮 (著), 渡邉 貴裕 (著), 尾高 邦生 (著), 田口 禎子 (著)